「 楽 園 迫 る 」創作ノートを公開します


ごあいさつにかえて


ぺぺぺの会では、〈感覚〉を大切にした演劇づくりをしています。

「考えたことには嘘が含まれているかもしれないけれど、感じたことに嘘はない」
と僕はたびたび思うのですが、感じることの弱点はそれが刹那的であるということです。
たとえば、僕が天ぷらを揚げているとき、はねた油に熱さを覚えたとしても、その熱さは一瞬のうちに過ぎ去ってしまいます。後には「熱かった」と考えることしかできなくなってしまう。


過去の記憶は、現在から受ける影響によって変質してしまうことがあります。
たとえば、僕が松の葉をみているとき、天ぷらの油はねを思い出して、
「そういえば針が刺すみたいな熱さだったなァ」
考えたとする。実際には針が刺すのとは異なる種類の痛みだったとしても。
この場合は比喩によって、過去があらためられている。


そういうわけで、考えたことには嘘が含まれているかもしれない、と僕は思うのです。




刹那的な感覚を鮮度のよい状態でアーカイブするために、このノートを付けることをはじめました。演出部と俳優が一週間に一度、稽古や本番で感じたことをリアルタイムに記していきます。


ここに書かれていることは、それぞれが考えたことではなくて、感じたことであるから、皆さまには少々読みづらい思いをさせてしまうこともあるかもしれません。

けれどもそのぶんには嘘のない言葉を、僕たちの感覚の保管庫を、のぞき見するように楽しんでいただけたら嬉しいです。


2020年11月16日正午

宮 澤 大 和




稽古第一週目(11月3日〜11月5日)


(宮澤)

 作曲家・未来くんとの打ち合わせは、皆が稽古で提示してくれたキーワードをもとにして、進んでいきました。具体的には、「壁」や「血、肉、内蔵」、「モノクローム」、「分断」、それから「資本」、「格差」などなど。

 そうやってお話をしているうちに戯曲を三幕構成にし、音楽もそれにあわせて展開させていくのはどうだろう、ということになりました。

 詩のシーンを第一幕、電話交換手の女のシーンを第二幕、女1, 2, 3のシーンを第三幕と呼ぶことにします。

 第一幕のシーンでは機械音。タイプライターを叩く音や歯車がまわり噛みあう音。鍛冶の音。溶接のためのバーナーの音。割に重厚感のある工業的な音の重なりが偶然に音楽になっていく。また、微かに裏ではロックミュージックが鳴っている。これには、外構えは機械じかけではあるけれど、あくまで内面には赤黒い血が通っているという意味合いを込めました。

 第二幕は、ビープ音(警報音)の類を映像にあわせて鳴らします。今回は、映像と俳優の身体表現(ダンス)を組み合わせたいと考えています。

 第三幕は、俳優のセリフに焦点をあわせるために、音響は裏で微かにそれも規則で観客の集中力を削がないようなものにします。



(石塚)

筋トレについて

・左腕の筋肉が弱くなっている。

・全体的に筋力が落ちているのは明らかだが、筋力が落ちている状態で無理に筋トレをたくさんするのも良くないと思った。無理をする部分が出てくるので、体に負担がかかる。(わたしの場合、腸脛靭帯?お尻の筋肉も硬くなっているかも)


稽古・戯曲について

実際に演劇として立ち上げるときには、戯曲から得た感覚がお客さんも得られるように作っていくのがよいと思う。

「偶然性が消費社会を超える」
→舞台上で起きた事象を、お客さんが目撃し、物語として紡いでゆく

事象だけを起こしてお客さんに丸投げするのではなく、一緒に物語を作っていきましょうという親切な姿勢が大切だと思う。

物語を進めるために書かれた戯曲というのは、受動態の世界。
事象のみを記録する戯曲は、中動態の世界。 
https://www1.e-hon.ne.jp/content/toshoshimbun/3305_1.html

http://igs-kankan.com/article/2019/10/001185/


返信(宮澤)

この本、読んでいないのですが、以前から興味ありました。

言語で補完される第一幕的世界観では、コミュニケーションの前提に「知る/知らせる」があるのだと思います。発話者は知らせるために喋るし、聞き手は知るために聞く。そのため、簡潔な物言いであったり、純真な吸収力が必要とされます。これらは世の中を生き抜くための器用さであるかもしれません。

しかし、一方で「知る」ことは、自身の想像力を削いでいく行為であると、僕は考えます。《断片》は、その情報量の少なさが、創作者である僕たちにクリエイティビティを授けてくれます。でも《断片》が情報で次々に補完されていったとき、新しい何かが創造される可能性はどんどん薄まっていく。深く知りすぎると想像と創造の幅が制限されるのです。僕は「知る」ことは受動態の世界なのだと考えます。

一部のトランプ支持者は、トランプの情報発信だけを鵜呑みにして、トランプの主張をオウムのように話します。

「選挙には不正があった」。

わかりやすい一例として、トランプ支持者を挙げましたが、似たようなことは日本社会でも多く起きていると思います。むしろ、同調圧力の強い日本のほうが根深く、受動態の世界が存在しているやもしれません。

対して、学ぶことは能動態の世界であるといえます。学びは単なる情報の摂取ではなく、情報の活用であるからです。僕たちが舞台芸術を通して実践したいことは、能動態の世界の実践なのだと考えました。



(のいず)

戯曲について(ファーストインプレッションで考えたこと)

ままごとのナイフ→本物ではない、嘘、偽り
・ままごとのような真似事、自分の言葉ではない

罫線の中→1Pからすでに罫線からは収まっておらず、ずれている。
・型に嵌らないことを意識化

死んだ
・本当は死にたくないけれど「死にたい」と思ったり言ったりすることはある。私はどういう感情の時に死にたくなるのか書き出してみて考えたとき、自分が冷静でいられなくなると死にたくなるんだなということが分かった。

2Pに「彼女」というワードがあるが、自分の事…?

大衆化したおじさん、レゴ→1Pの罫線の詩と繋がりそう

全体的に今までにないテイストで面白い。縦書きの書き物は、横書きより頭に入ってくるような気がしたし、楽しい。


返信(宮澤)

ハイデガーは、人間にとっての、じぶんの死は、他人には無関係で自己的である、と言っています。

死は〈確定〉してやってくるのだけれど、それでは具体的にいつになったらやってくるのかは〈不確定〉。

死後の世界を知っている人はこの世に(オカルトの類を除いて)いません。死んでみなければ死後の世界を知ることはできない。

そう考えると、死が有する可能性っていうのは、四方を〈壁〉に閉ざされた空間のようでありながらも、見渡すかぎり視界を遮るような〈壁〉のない世界であるかもしれません。



(百瀬)

戯曲について

・第一印象は全体的に鋭利で冷たく感じた。一貫してモノクロの膝下丈のワンピースの女性が裸足で駆けている。

・線で消された言葉はおそらく他の言葉と異なる方法で舞台空間上で発話もしくは発現される? 線で消されたものの方が本音に近いことがあると思う。その言葉を消したのは相手を意識しているから。

・4ページ目の一番最後の線で消された「有」は一体何なのか。音読の時に発話されなかったが、その紙面上には存在している。紙面上には存在していても単語を成立させなければその語は発話されず、他者に認識されない。

・後半の女性たちの会話はベルイマンの『ペルソナ/仮面』を彷彿させる。不可思議な女性たちの不条理でかみ合わない不安定な会話のあたりが連関したのか。


返信(宮澤)

 〈世界〉それ自体をみるということ。そのためには上空から俯瞰して社会を地図のように捉えるだけでなく、地階からの測量が必要です。


「その言葉を消したのは相手を意識しているから」

これはかなり重要なキーワードになるかもしれません。〈ナイフ〉は他者に作用するための道具です。言葉が〈ナイフ〉に喩えられている以上、ここに並ばっている言葉は、他者に向けられているのでしょう。




(佐藤)

初回の稽古。

色々と戯曲について話しましたが、最初なので初めて読んだ印象を書こうと思います。

これまでの戯曲は、額縁に入っているようなイメージだったが、この戯曲は手紙のような日記のような、そんなイメージ。手書きで書かれた戯曲を先に見ていたからかもしれない。

私は、活字で書かれた戯曲を当たり前のように見てきたけれど、まだパソコンもタイプライターもない時代は、作者の筆跡によって立ち上がるイメージが左右されていたのかもしれない。

均質化。


返信(宮澤)

あの日も皆でお話ししましたけれど、仕事におけるマニュアルやテンプレートの均質化と重なる部分がかなりありますよね。

デジタル技術の発達とは均質化の促進のことなのだと思います。手書きとワードプロセッサの関係もそうですし、紙の本と電子書籍もそうです。本ごとに異なる紙の質感やフォントやにおいを、電子書籍では味わうことができません。

いま、多くの大学生はスマートフォンでレポートを作成するんですって。でも、僕は思うのだけれど、言葉を打ちこんでいくっていうのは、単に文字を入力していくだけではなくて、魂を吹きこむということなんです。インターネットや業務連絡用のチャットには、魂のない無機質で均質な言葉が多い。僕はたまにそんなようなことを感じます。





稽古第二週目(11月6日〜11月12日)


(宮澤)

稽古2日目、3日目にして、大きく前進しています。皆が台本をよく読み、感じたことについてを稽古場で語ってくれるおかげです。本当にありがとうございます。『断片をつむぐ』で、「読解→批評→演技」の流れのコンセンサスを明確にすることができたからでしょうか。『No. 1 Pure Pedigree』のときよりも早いペースで作品が立ち上がっていっているのを感じます。

三幕のように、3人が個として存在するシーンはとくに、「批評」だけでなく「演技」の段になって気がつくことも多いのではないかと思います。

「批評」の時間と読み稽古の時間を交互に設けてみることにしてみよう。

役を俯瞰して気がつくことと、役を内蔵したからこそ気がつくこと。



(のいず)

11月8,9日の稽古を通して

作品の批評ペースの速さは私自身も感じました。昨年の9.807のときの事を思い出したりするのですが、昨年よりも共通言語が増えた気がしていて、それによって今スムーズに進めているのだなと感じています。


背景は見ようとしなければ見えない。海鳴りは、聞こうとしたものにしか聞こえない。(9.807 三 renの台詞より)

 晴日が話してくれた「わたし」と「ぼく」の2人がいて推敲して話しているという批評は面白いと思っていて、間にいるトランスレーターのことを考えたとき、トランスレーターは実物として見えているのかそうでないのかという疑問が浮かんだ。ファミレスで話している際、9.807の「わたしとおまえ」の意味について話していた時のことを思い出し上記の一台詞をふと目にしたとき、「背景」は、わたしが「あなた」へ話すときは見(え)ていなくて、そのときに生まれる壁(分断)は、聞こうとしないと気付けないものなのだろうなと思った。自身の持つ相手への偏見や勝手なイメージ(=あなた)は、時により相手を傷つけたり誤解を生んだりしてしまう(=壁、分断)。 分断は、見ることも聞くこともできるんだなと思った。


返信(宮澤)

共通の言語と共通の時間。

話した内容(言語=理性)によって共有されたことばかりじゃなくて、話したという事実(時間=過程)によって共有されるものがあるのだと思いました。

その二つをあわせたものがコンセンサス(共通認識)と呼ばれるのですね。

「意味のない言葉を言いつつも心で繋がっている」。れいなが書いてくれたことも、時間を共有するということなのだと解釈した。これは第三幕的世界観ですよね。



(はるひ)

「言葉は誰に向けて語られているのか?」

第一幕には、2人の主体格が存在している。「わたし」と「ぼく」である。だが、わたしがぼくを認識するとき、「あなた」としてぼくを見ている。ぼくもわたしを認識するとき、「きみ」としてわたしを見ている。きみに宛てられた言葉をわたしが解釈・のみこむときに、齟齬が生まれるのではないだろうか。

また、わたしはぼくが見ている「きみ」として存在したいがために、発言を推敲しているのではないだろうか。

かなり読解が進んできた。どう舞台に立ち上げていくかが楽しみです。



(れいな)

「戯曲上には、3つの言語の様態を用いた世界がある。

それぞれの世界で言語ルールを守りながら相手を理解しようとしている。(理解している?)」

・私たち(観客)は、3つの世界の言語を聞き、共通意思を見つけることのできるトランスレーターなのかもしれない。

→3つの世界を知り、理解しようとしている姿勢

・私たち(観客)は、3つの世界を行き来している「女」かもしれない。

→言葉を道具としても使う時もあり、マニュアル(受動的)として使う時もあり、意味のない言葉を言いつつも心で繋がっている時もある



(百瀬)

・言葉はどのようにして用いられ、コミュニケーションを生み出していくのだろうか。意味のない言葉は前後のコンテクストによってそこに存在する意味が生まれる?

・幽体離脱、主体と言語の乖離、もしくは言語が一人歩きを始め、新たな主体を想起させる? 私たちは言語を通して主体に触れているのではなく、触れているのは言語が作り出した新たな主体なのかもしれない。

・言語を受け取る際には翻訳、読解、感性の三つを駆使しているのではないか。(この三つが並列なのかは断言しにくいが)この受け取り方によってコミュニケーションのやり方が変化してくる。言語を受けて翻訳(=言語の言い換え)して言語を用いるのは受動的で、感性から言語を用いるのは第三幕の女たちのようである。


返信(宮澤)

コンテクスト。言葉になされていない部位に、僕たちは一様に言葉を補完しようとするけれど、そもそも言葉がないから言葉になされない可能性もあることを認識しなければならないのかも。


言語は現実世界と乖離する。言語でこしらえた世界は、VRやARの世界と似ているのかもしれない。解像度の高い仮想空間。

だから必然性(理性主義)だけで解釈しようとすると、齟齬や衝突が生じてしまうのだと思いました。偶然性(感じること)の重要さ。




稽古第三週目(11月13日〜11月19日)


2020/11/15 未来くんへ(宮澤)

https://www.evernote.com/l/AUE42QjHHxpBc7RfG-B40bhJAqJZlJ0gMJ8


(宮澤)

数えてみたのだけれど、稽古は残り6回くらいしかない。60分以上の演劇だったら詰みかけているところですが、30分の短編だったらちょうど脂ののった状態で本番を迎えられるのではないだろうか。けれどもこれからは、これまで以上に、集中をして稽古に取り組んでいかなければなりません。お互いに準備を怠らず、稽古を進めていきましょう。総じてみれば、稽古は順調に進んでいるのですから。好調のムードを全員で維持しましょう!


(れいな)

自分の感性がカラカラに乾いていたことに気づく。乾かないようにしていたつもりだけれど。つもりはつもり。

今までは自然とイメージが沸き上がってきたけれど、今回の稽古では思い浮かべようとしなければイメージが出てこない。

マニュアル通りにしていれば生きていけるから、気を抜いていると、何も考えなくなってしまう。

(逆に満員電車の中では何も考えないようにしている。感覚をシャットダウン。)

だからこの戯曲に向き合おうとすると、自分の生き方にも向き合わなくちゃいけなくて、しんどーい。

でも、この戯曲は別にそういう生き方を否定しているわけではなくて、そうやって生きている人々もいれば、そうじゃない人々もいるって、ただ状況を描いているだけ。

私がたまたま、しんどーいと感じただけ。

観る人によって感じ方が変わる劇。当たり前だけど目指したい。

晴日とのいちゃんの声と体、未来さんの音楽、様々な要素が増えて、ぐんっと進んだ感じ。

進んだ、というより立体的になった。

1つ1つのしっかりした要素。今はまだバラバラだけれど、1つになったらとんでもない作品になるだろうな。


返信(宮澤)

つもりはつもり、だったのは鈴奈だけじゃなくて、僕だってそうであるかもしれないし、もしかすると世の中の演劇人皆がそうであるかもしれない。

だから感性をリハビリテーションしていかなければならない。稽古場で戯曲について話しあうことや、稽古を反芻し文字にしていくことは、確実に復調かつ成長に繋がっていくと思います!

僕は戯曲を書いているとき、前はもっと上手に書けたのに、と思ってしまうことがあります。けれどもよくよく考えれば、刹那の感性で書いているのだから、つねにいまがピークなのですよね。ぺぺぺの演技もそうだと思います。感性はつねにいまがピーク。ピークをどれだけ高めることができるか。



(百瀬)

・考えて考えて行うのではなく、感じたことを行うことの意味が分かってきた気がする。考えることも大事だが、考えたことを全て表出することが良いものになるとは限らないのではないか。考えたことを感じさせないほうが優雅?

・立ち稽古を見て久しぶりに「ああ、これが演劇だったな」と感じた。さらに今回は身体の拡張を感じさせる表現なので、ますます舞台上でやる意味が強まってくるように思う。役者一人の身体だけではなく互いの役者の身体が影響し合い、作品の良さが増幅していけたらいいいなと思う。


返信(宮澤)

「考えたことを感じさせないほうが優雅」。その通りだと思います。哲学は隠匿されるからこそ、その効力を発揮します。隠匿されたものがちらりとみえることに歓びがあるんです。

いま、あらゆる創作はプロセスを開示することに躍起になっているけど、プロセスの開示自体に本質があるわけではない。——みえなかったものがちらりとみえる。

突如吹きつけた湿った南風がスカートをめくった。そこにはエロティシズムがある。けれど常時下着姿で街を歩く人にエロティシズムはない。単なる露出狂ですよね。



(のいず)

吹っ切れと理性のバランス。考える時と思うがままにするというバランス。

バランスというものを、取り戻したい。

見る人読む人それぞれが感じることだけれど、私は「わたしだな…わたしじゃないけれど、わたしなんだよな」とことテクストを、動いたことでより強く感じた。人は、多面的でありそれを使い分けて生きてきているわけだけれど、その多面的に出ている「わたし」に比べたり比べられたり悩んだり苦しんだり、次第には飲まれていくこともある。これはどんな人にも生きていて感じたことのある「違和感」だと思う。

テクストと向き合い、苦しいとかつらいと思うことが読み進めることで鮮明になっていき、言葉に言い表すのが億劫になるくらいのモヤモヤが心にあるが、1つずつ紐解いて一本の線にしていきたい。


返信(宮澤)

〈対象〉とは何か。こういうことを無駄に考えてしまうのは人間の特性であり、宿痾であるのかもしれませんね。

ねずみは己がねずみであることを考えないでしょう。ねずみの、内臓の中に居を構えるはりがねむしもまた。

発話とは何か。演技とは何か。舞台とは。世界とは。

このような問いは、究極、自己とは何かに帰着する。……



(はるひ)

言葉を話す責任をより強く感じます。

身体が立ち上がると、身体は「役割」「役」を意識せざるを得なくなる。役割を帯びた身体から発せられる言葉は、詩は、どのように変化してゆくのか、楽しみです。立ち稽古が始まったので、土日はより役割を意識して作っていきたいです。

稽古場で、起きた感覚や話したポツポツとおきた意見に、身を委ねていくのはとても心地が良いし、楽しいです。


返信(宮澤)

身を委ねて——壁に寄りかかるようにして——生きていくのは一様に悪いことではないのですよね。選択することがいつも正しいとは限らない。選択するには選択肢が必要で、けれど選択肢のうちどれかがかならず正しいわけじゃない。選挙に票を投じないこともある意味での意思表示。……いま提示されている選択肢はどれも自分の意にそぐわないだ。でも「わたしには無理よ」「わたしは。眠って待つことにするわ。夜明けを」



稽古第四週目(11月20日〜11月26日)


(宮澤)

俳優業だけでなく劇団の業務も抱え、たいへん忙しいなか、シーンを練っていただきありがとうございます。今回はこれまでになく、時間に追われながら、稽古をしていますが、こうして順調に稽古が進んでいるのは、皆が決して怠らじと準備してくださっているおかげです。ほんとうに感謝しています。ありがとうございます。

あと3日の、稽古が過ぎれば幕開きとなります。『楽園迫る』はまだまだ成長の途上です。この2日のオフでしっかりと精神と肉体を休ませながら、動きを練り練りしてみてください。第一幕も、第三幕も、まだまだよくなります。皆で頑張りましょう!



(佐藤)

当たり前ですけど、ぺペペの会の俳優は3人とも違う人。

考え方も、外見も、得意なことも、不得意なことも、みんな違う。

私が、晴日やのいちゃんが感じているものを、そっくりそのまま感じることは不可能。

だけれど、舞台上で2人と「繋がった!」と感じる時間は確かに存在して、おもしろいなぁと思う。これが好きなんだなぁと、改めて思う。

言語化できないこの感覚を、この時間を、もっともっと増やしたい。

稽古場に作曲のみらいさん、照明の早野さん、音響の海人さん、制作補佐の清夏ちゃんが来てくれました。いよいよ本番が近づいているのだと、そして演劇は一人ではできないのだと、改めて実感しました。

「改めて」実感することばかりだなぁ。

コロナの影響で、「おばけばかり」全体で集まることができなかったので、早く皆さんにお会いしたいです。


返信(宮澤)

僕も演劇をひさしぶりに演出していて、あらためて気がついたことがたくさんあります。

1年前は演劇が好きだから演劇づくりをしていたのだけど、いまは人との係わりあいを求めて、演劇をしているのだということを、ひしひしと感じます。

本や映像で多くのことを知ることはできるけど、体感・体得するためには、なまに人と会うのが一番です。

出不精の僕だけど、演劇があるから、人と係わりあうことができています。

差異をみつめた先に、共通点があるのだと思います。

これも体感・体得しなければ、なかなかわからないことですよね。



(のいず)

「考えて話したことは嘘かもしれないけれど、感じたことはホンモノだよね」

というのを、稽古を通して改めて意味をかみしめている。立ち稽古では、読んで考えた時には感じられなかった感情が泉のように湧きあがってくる。そのときの私・晴日・れいなの状態と空間を感じながら表現することがとても楽しい。リンクしたときのゾクゾク感を座組全員で感じられていることに感謝。きっとこれは、普通の事ではないと思うから。

自分の目指す「楽園」にはまだ距離があるから、数少ない時間の中で距離をぐっと縮めたい。

私たち人間は、一人ひとり育ち方も考え方も好きな食べ物も趣味も価値観も、違う。

けれど、元を辿れば、私たちの祖先はみんな同じ生物。

違うんだけれど、違うんだけれど・・・もっと奥深いところを、感じてもらえたらなあと、私自身も、もっと感じられるようになりたいなあと願いながら、臨む。


返信(宮澤)

元を辿っていくことって、とてもたいせつなことですよね。人と人の差異について語るとき、じぶんは川下の景色だけをみているのではないかと、たまに立ち止まりたくなることがあります。支流は、それぞれの景色を持っているけど、元を辿ればそれはおなじ地点から湧き出た水なのだ、という意識をつねに忘れないでいたいです。



(はるひ)

まだまだなのでかんばります。
自分との距離が狭まったセリフとそうでないセリフの差が激しいので、なくしたい。

土曜が勝負ですね


返信(宮澤)

ほんとうに、勝負の土日でしたね…。結果的に、とりあえず勝負に勝つことができてよかったと、胸を撫でおろしています。

精神を腐らせなければ奇跡は起こるのだと思います。これからも、演劇をつくるときは、そのことを強く念頭に置きたい。〈よい作品〉よりもまずは精神を健全な状態で保つこと、そうすれば自ずと、〈よい作品〉は生まれるのですよね。



(百瀬)

この一週間で一気に作品が形になってきたように思う。三つのものを合わせて観たときにそれらがどう映るのかが非常にわくわくする。前後のコンテクストが生まれることにより、作品は更なる意味を持って舞台上に表出するのだと思う。その効果をある程度計算したうえで作品を作ったほうが本当は良いのかもしれないけれど、計算せずに生まれるものも、人と人がコミュニケーションをとって作っているのかということを実感できて面白いのかもしれない。それは一人では絶対にできないものなので。言語ももしかしたら同じようなもので言葉単体ではただの記号的意味しか持たないが、誰によっていつどこでどのように発話されるのかということで記号的意味を超えた意味を付随する。一つの言葉だけでは出来ないものがあると感じる。


返信(宮澤)

お客さんは三つの幕をどのようにして感じとってくださるのか、とても愉しみです。それらのあいだにコンテクストを見出されても、見出されずとも、多様な想起を生むことができたらよいなァと考えています。



稽古第五週目(11月26日〜12月3日)


(宮澤)

さいごの稽古が完了しました。立てつけに3度の通し稽古をし、万全の状態で稽古を終えることができました。あとは、劇場とどのように共鳴させていくか、だと思う。

音響・照明・映像が加わった『楽園迫る』が、どんなふうに立ちあらわれるのか、とても愉しみです。