「ぺ」をのぞく

ぺぺぺの会のこれまでの作品を、すこし詳しく覗きます👀




ダイジェスト映像:
https://www.youtube.com/watch?v=GZn_pNYM16U

[作品概要]

パパから引き継いだ畑でブドウを栽培している
歳を取っていくらか面倒になった母親をいつからだろう、クソババァと心のなかで蔑むようになったのは
いつも比較されて、いつも自分はほかの誰よりも劣ってるのだと思って生きてきた、

一発逆転してェ……

そこにやって来たのはFIREを達成したと自称するインフルエンサーの二人組、奴らは夜な夜なライブ配信をしてこう喧伝する
——今! まさに今! 日本円はとても悲しい運命を辿ってる最中なんです🥺

劇作家が自らの投資体験をもとに書き上げた、ぺぺぺの会のワンダフルな新作長編
「貯蓄から投資へ」「一億総投資家」社会がもたらす功罪、経済はますます私たちの生活を侵食していく

CoRich 舞台芸術まつり!2025春 審査員講評 (河野桃子)


新NISAをテーマに、チェーホフ『ワーニャ伯父さん』をベースにした日本のとある葡萄農家のようすを描く。会場は大田区の元工場を利用したギャラリーで、チケット代は毎週の日経平均株価の終値を反映するなど、コンセプトやさまざまな取り組みが楽しい。

こだわり組み立てられている一方で、盛りだくさんにも感じられました。戯曲としても『ワーニャ伯父さん』の物語を反転させるくらい本作独自の世界により引き寄せてもよかったようにも思います。またアメリカを強く意識しながらも、そこにアメリカと複雑な関係を保つロシアの戯曲をベースにしたことの皮肉もより明確であっても上演の説得力に繋がったのではないかと想像しました。

トランプ関税等の影響によって株価が大きな影響を受け、投資家たちが沸き立ったのが記憶に新しい昨今。演劇というリアルタイムの虚構が追いつくには世の中のスピードがとても速くなっています。現実との接続は難しいなか、日経平均株価を反映するチケットの値段設定はとても良く、キリの悪いチケット代を見てわくわくしました。

会場は、大田区の元機械工場をリニューアルしたギャラリーでした。

町工場は高度経済成長を支え、日本のなかでもアメリカ(はじめ国外)の影響を強く受けた分野です。とくに大田区には町工場が密集していましたが、時を経て激減してしまった。ある意味で、日本の経済と発展・衰退の象徴のような地域ともいえます。そのような場所であるからこそ、工場を舞台としたことを重ねられれば、より身近なこととして実感できたように思えました。

舞台奥のシャッターから車が出入りするさまは、かつてはきっとなにげない日常だったでしょう。しかしそのなにげなさ(車の出入り=取引があるということ)こそ、繁栄の象徴のような光景だったのかもしれません。


ダイジェスト映像:
https://youtu.be/LC6keajsSeY?si=BbRiDLkbpbgghTXg

[作品概要]

「わたし」が「わたしたち」のことばで話すために,

「わたしたち」が「わたし」のことばで話すために,

日本各地で行ったインタビューを作品にし、「たまたま in Harunako」「たまたま in Tokyo」「たまたま in Kyoto」「たまたま in Shiga」の4作品を上演しました。制作過程の様子も併せて展示しました。


ぺぺぺの会『「またまた」やって生まれる「たまたま」』劇評(執筆:丘田ミイ子)


他者へのインタビューを元に創作された4作品を通して私が抱いた率直な感想は「人と人はそう簡単には分かり合えない」ということだった。一見、本作の取り組みを反故にするような言葉に聞こえるかもしれないが、決してそうではない。

どの作品も「人と人が分かり合う瞬間」を示してはいた。しかし、いずれもそこから先の未来が描かれていない点では「その場限りの分かり合い」である可能性もまた強く感じたのであるかくいう私も13年ほどインタビュー活動を行ってきたライターである。これまで「会話」を行った人数は数え切れないが、その中で「対話」と呼べるものは数えられるほどしかないように思う。では、相手と「分かり合えた」と思ったインタビューは?それはもはやゼロに等しい。たかだか1時間ほどのインタビュー内で本当の意味で他者を理解できるはずはなく、そう思うこと自体が傲慢であるとも痛感する。しかし、これまでの人生のうちわずか1時間を共有した人々の言葉たちを私は折に触れては思い出してもいる。勝手に励まされたり、共感したりする。落ち込んだり、反発したりもする。そのような現象が生まれるのは、インタビュイーとインタビュアーに限ったことではない。家族や恋人、友人や同僚、そんな間柄には収まらないあらゆる人間間の会話には「分かり合える可能性」と「分かり合えない不可能性」が等しく存在する。一生かかっても、人一人を完全に理解することは難しい。だからこそ、会話をする。本企画は、そんな不可能性の前提に立った上で「それでも他者に手を伸ばしてみることの実践」であったように思うのだ。


ぺぺぺの会『「またまた」やって生まれる「たまたま」』劇評(執筆:関根遼)


群馬や東京、京都、滋賀で行ったインタビューをもとに制作された本作では、「あなたとわたしの共通点」に注目することで、「わかりあう」ための手段としての対話の可能性を探るという。

 まず特徴的だったのは空間構成。アトリエウエストという決して広くない縦長の空間が、本作の公演参加者が考案したさまざまな仕掛けによって、さながら一つの巨大なインスタレーションのように変化していた。「わたしとわたしたち」と題されたこの展示ではインタビュー映像をはじめ、壁際に置かれたいくつかの靴を、その持ち主を想像しながら履いてみる「わたしの靴、あなたの靴」、嫌いな人のプロフィールを紙に記入し、それを鉢植えの中に入れて鉢植えごと持って帰る「嫌いな奴を埋める」などユニークな仕掛けもあった。これらの仕掛けは、その場に不在の他者─例えば嫌いな奴─の姿を、自らと同じ存在として想像するよう観客に促すものだった。しばしば出演者やスタッフは、仕掛けを体験するよう、観客に対してにこやかに語りかけてくる。一般的な劇場空間とは異なり、明るく穏やかで優しさに満ちた空間がそこにはあった。

そこで行われた上演もまた、同様の優しさを有していた。それぞれ2人の役者がインタビューのような形式で言葉を交わしていく4つのパートは、いずれも各地で行なったインタビューに基づく創作であって、実際のインタビューが再現されるわけでも、そこで得られた情報が伝えられるわけでもない。つまり、本作は昨今流行りのドキュメンタリー演劇ではなく、インタビューという行為を通して作者が得た「何か」─作中の台詞を借りれば「インタビューを通して思ったこととか、感じたこと」を表現するものだった。


一方、本作には少なからず物足りなさも感じた。 

そこで書かれ、語られた言葉たちは不可視の境界線の向こう側にいる「あなた(たち)」の言葉でしかなく、観客である「わたし(たち)」をも抱合し、あるいは共振するような瞬間が生じることはなかったように思われる。そのためこの優しさ─あたかも自らが傷つく/けることを恐れて部屋の中に閉じこもってしまった引きこもりのような─は、演劇=劇場という場において対峙すべき一番の他者である観客に対する戦略の欠如(が言い過ぎであれば不足)のように感じられた。「わたし(たち)」と「あなた(たち)」は優しさという名の壁によって隔てられ、その前でただ立ち尽くすしかなかったのだ。 


ダイジェスト映像:
https://youtu.be/AUcsMIIIgV

[作品概要]

人はなぜ体を鍛えるのか。まずは、そのことについて深く考える必要があるだろう。
体を鍛えて筋肉量を増やしていくことに、いったい何の意味があるというのだろう? 
何が私たちを筋トレへと、駆り立てるのだろう? 踊る毛抜と踊るダンベル。
シャル・ウィー・ダンス? 程なくして私たちも踊りだす。ワン・ツー・スリー、リズムに合わせて。
歌舞伎十八番のひとつ『毛抜』と、三島由紀夫の肉体論が、今、響きあう!

劇評『暗がりのボディ・ビルディング』 (落 雅季子)


 ‘宮澤’大和は「ボディビルとは歌舞伎である」との仮説のもと、1742年初演の『毛抜』を下敷きに、三島由紀夫による肉体論『太陽と鉄』を重ねて本作のシナリオを書いた。『太陽と鉄と毛抜』は宮澤による小説をもとにした演劇であり、戯曲にはそのオリジナルの小説も収録されている。あわせて読むと小説は、ト書きでは補完しきれない描写、心理状態を、小説は戯曲とは異なる距離感で表現し、クリエイションを助けていることがわかる。

 『毛抜』のキャッチーでサイエンティフィックな面白さに魅了されてこの作品を翻案しようと決めた宮澤の軽やかなノリしかり、劇団・ぺぺぺの会の佇まいには、真剣な遊び心がある。しかし軽やかなものはナイーヴでもあり、鍛えなければ重たい頭脳を持て余して朽ちてしまう。その予感があったからこそ、宮沢は暗い自室でトレーニングに取り憑かれてしまったのではないだろうか。コンセプトを実現するために訓練を積み、研ぎ澄ました身体を作り上げる。そうした身体を通して体現された表現しか持ち得ない迫力は確かにあるし、実際、公演にあたって鍛えられた宮澤の筋肉はとてつもなく新鮮かつ強靭で、美しく見えた。

 終盤、宮沢に東郷が「ダンベルから手を離してみてください!」と叫ぶシーンが、この作品の心臓部となる。歌舞伎『毛抜』の主人公・粂寺弾正(くめでら・だんじょう)は、鉄製の毛抜が宙に浮くのを見て、姫の髪を逆立てているのが磁石だと見抜いた。戯曲には「もしダンベルが何かの暗喩なのだとしたら」とあるが、ではそれを動かしていた磁石は何の暗喩だろうか。過去や強迫観念に人を浸からせたままにするのは、変化を拒む執着か、他者への不安か。

劇評『鉄の筆は一人の力では動かない』(丘田ミイ子)


・毛抜の材質は銀、貝殻、木、鉄を経て、現代はステンレスが一般的。かつてはハマグリなどの二枚貝を使っていたが、江戸時代以降は鍛冶屋や工業の発達によって鉄がその素材の主流となり、工芸品としても発展。これは歌舞伎の発生・発展に近しい時期でもある。
・筋肉の理想美を披露するボディビルの起源は19世紀末のイングランド。日本でその言葉が確立したのは、日本ボディビル協会が発足された1955年以降であり、三島由紀夫の『太陽と鉄』が発表される10年ほど前に当たる。

と、歌舞伎の歴史と並行し、三島由紀夫と筋トレと脱毛のそれについて調べることになるとは思ってもいなかった。しかし、少なくとも私にとって『太陽と鉄と毛抜』という作品はこういった深堀りの欲求を駆り立てるものであった。劇評に役立つかは別にしても、舞台の風景と劇作のエッセンスとなった物事が思いもよらぬ形で接続しているのではないか、と探らずにはいられない。そんな含みを随所に感じる作品だったのだ。


「人はなぜ身体を鍛えるのか」。その命題に対する答えはまだ出ていない。

しかし、「人はなぜ生まれるのか」と言われたら、やはり「誰かと喜ぶため」なのではないだろうか。ラストシーン、溢れんばかりの笑顔で踊り狂う4人の演者を見ながら、私はそんなことを思った。いったんは箱に仕舞われるとしても、ぺぺぺの会の新たな“十八番”として『太陽と鉄と毛抜』にまたいつか劇場で再会できたら嬉しい。

いつの時代も表現においては、「今」にフォーカスすることでしか発揮し得ない煌めきがあるのだとつくづく思う。鉄製の毛抜がオーソドックスであった時代に『毛抜』という作品が成立するように。ボディビルが広まった頃に三島由紀夫が『太陽と鉄』を発表したように。それと同じように、ぺぺぺの会というカンパニーの「今」は、この新作『太陽と鉄と毛抜』という超現代劇に凝縮されていた。「公演中止」という話題が折り込まれた作品には、やはり演劇という創作の険しさや厳しさも痛感する。それでも、宮沢にはぜひ劇作を続けてほしい。行き詰まって筋トレに取り憑かれたときにも、例えばこんな声をかけてくれるメンバーがそこにいる限り。

「宮沢さん! 安心して筆から手を離してみてください!」

不思議なことに筆は離したそばから自ずと走り出すこともあるらしい。そのトリックは未だ明かされてはないらしいのだけれど。

[作品概要]

世界を、広く、大きなものにしていく——

世界を主体的に生き抜くために、行動を起こし続けることを選択した斗起夫は、父が死んだ日に「運命の人」とめぐり逢う。ぎこちない不自然なコミュニケーションが、人間同士の溝を深め、やがて過去のトラウマを喚び起こす。そして、彼はあることを決意するだろう……。オリジナル小説から産み落とされた精確な筆致、言葉の数々。ぺぺぺの会、渾身の傑作長編。

週刊金曜日掲載文(藤原央登)


都市で孤独に生きる若者の、もどかしさや怒りを感得させる作品だ。現代社会の映し絵であり、1960年代の学生運動への言及がある点に、夢破れた戦後の革命家たちの悲哀も滲ませる。
 新興宗教まがいのサークルで斗起夫(新堀隼弥)と名付けられた男は、不倫の末に自殺した父や中年男性にレイプされた過去をもつ。愛に飢えた彼は、世界の破滅を目論むが、地球に擬されたメロンを、レズビアンのわらび(石塚晴日)と食べる。そのことで彼は、かすかな愛の手触りを見出す。
性の不能が語られるため、性愛を超えた他者との連帯を問う物語に思える。だが文学や哲学を下敷きにしたセリフは韜晦的で、さらに29のシーンがバラバラになっているため、わかりやすくはない。だからこそ、物語を頭で組み立てることが、そのまま斗起夫の精神世界を追跡する劇構造になっている。

 過激な行為の底には、単純な愛の希求があるのではないか。斗起夫が取り出した手製の銃の形状から、彼に山上徹也容疑者を重ねて観た。
コンクリート打ちっぱなしのダークな空間を基調に、時にセミナーのように、観客に社会問題を考えさせるような演出が良い。新堀の無機的な演技と、明るさが逆に怪しい、サークルのリーダー・リリィ(宇田奈々絵)が印象深かった。

暗闇に浮かぶ黄色は「警告」か、それとも「祈り」か。(丘田ミイ子)


開演前が往々にしてそうであるように、客席に座った観客はまず上演諸注意を聞く。出演者の宇田奈々絵が告げるそのアナウンスは「上演中の写真撮影はOKです」ということ以外は別段変わったことはなかった。
しかし、「以上で“上映”は“終了”となります」という言葉を聞いてすぐ、そこからは諸注意でなく台詞であり、物語がインサートされていることを察する。

冒頭シーンは、映画館での上映会で司会のリリィ(宇田奈々絵)が上映終了の挨拶を行っている場面であった。前説から本編へ、ひいては日常から物語へと接続していくそれは非常にスマートな演出であった。また、そのスマートさは外面/パッケージだけではなく、内面/ストラクチャーにも言えることであった。それは、「映画を観ていた観客」と「演劇を観ている観客」が入れ子構造の中で等しく“当事者”になっていくこと、ならざるをえないことが示された瞬間だった。
主人公の斗起夫(新堀隼弥)をはじめとする登場人物たちもまた映画の観客としてそこに存在しており、私とともに目の前で起きることを目撃していた=同じ時間を共有していた、という前提の元、物語が進行した。それは、「俳優と観客が同じ立場にあること」を予め明確に提示すること、それによって観客の主体的な観劇を叶えようとする表明の他ならなかった。上演中の撮影をOKとしていることもおそらくこの主体性の重視に通じているのではないだろうか。

29ものシーンは時系列を横断的に行き交い、その断片的な連想のパッチワークがより「記憶」に立ち会う感覚を強くしていた。そこには、「演劇を見やすくする」といったある種の予定調和を諸共投げ打ってでも伝えたい、人間がその人生とともに帯同と共生を余儀なくされる「生きづらさ」、今日明日に容易には消化できない社会の「やりきれなさ」がありありと抽出されていたように思う。時系列が細かく整理されていることや、登場人物の歩みや思いが独白で示されていくこと、社会的問題を扱うにあたって誤解を招かぬよう丁寧なリードを伴走させること。それらを意図的に行うことによって観客にとって「やさしい」作品は作ることができる。しかし、本作はその真逆の方法を取りながら、「果たしてそんなに人とは、世とは簡単なものだろうか」という問いかけを重ねていたような気がしてならない。いくつものトラブルとテーマを携えながら目の前で起こる風景を通じて「観客が主体的に感じるもの」に重きを置いていたのではないだろうか。それによって複雑で多様な人間の在り方を、その果てしなさを握らせていたのではないだろうか、と。斗起夫という一人の男、東京という一つの都市をめぐる近未来2031年の物語は、そのまま今を生きる人間や今ある街そのものにも置換できる。そう考えた時、やはり私たちの生きる未来はひどく険しい