2022年12月 ぶいの「ぺ」公演 『斗起夫 ―2031年、東京、都市についての物語―』

『斗起夫 ―2031年、東京、都市についての物語―』



世界を、広く、大きなものにしていく——

世界を主体的に生き抜くために、行動を起こし続けることを選択した斗起夫は、父が死んだ日に「運命の人」とめぐり逢う。ぎこちない不自然なコミュニケーションが、人間同士の溝を深め、やがて過去のトラウマを喚び起こす。そして、彼はあることを決意するだろう……。オリジナル小説から産み落とされた精確な筆致、言葉の数々。ぺぺぺの会、渾身の傑作長編。




1年がかりでつくってきた作品がまもなく上演されます。

この作品は、最初私がひとりで小説の形式にして書いて起こし、8月のワークインプログレスで、8人の俳優に協力してもらいながら、小説は戯曲になりました。
戯曲をリーディングするのを同世代の劇作家・演出家である神保さん、中島さん、三橋さんにご鑑賞いただいて、その後の座談会では、『斗起夫』に関することも、また創作一般にまつわるようなことも、さまざまな意見交換がおこなわれ、大変充実した時間を過ごすことができました。

私は、ワークインプログレスでのリーディングと座談会を経て、この作品をさらに良いものにしていくための手がかりを確かに手に入れました。
ワークインプログレス後、9月〜10月にかけては、戯曲に対してラディカルな手入れをすることを厭わず、新バージョンの戯曲(上演台本)を作成しました。

手がかりがちゃんとした形になった瞬間でした。


私は、この『斗起夫』という物語をつくるにあたって、いくつかの犯罪的事例についてをリサーチしました。
リサーチを重ねていくうちに奇妙な感情が自分のなかで湧き起こってくるのを感じました。自分も、なにかの拍子に、もしかしたら加害者と同じ行動をとってしまうことがあるのではないか、または、自分の家族や友人が加害者になってしまったとき、私にはなにができるだろうか、と多少ノイローゼ的な考えをめぐらせながら、私は斗起夫のかわりに、斗起夫の言葉を書き連ねていきました。

報道は、それがマスメディアに向けられたものであればあるほど、被害者の被害を深刻に伝え、加害者を「悪」で塗り潰そうとします。

私が、この『斗起夫』を通してやりたいことは、多くの加害者と被害者とを生んでしまう社会の構造を劇空間にそのまま引き出す、ということです。

そのまま引き出すために私は、過去→現在→未来というふうに流れていく直線的な時間軸とは別のかたちで、この物語を編んでいこうと決めました。社会に充填されている「空気」のようなものを表現するには別の時間軸、つまり人間の記憶に基づいてストーリーテリングしていく必要があると考えたからです。


斗起夫は、どうしても引いた視点から物事を見てしまって、それが原因で自分は人生を愉しみきれないのだということを自覚します。そして主体的に、行動することを心掛けるのですが、引いた視点で物事を分析したり、自分自身を監視したりすることからはどうしても逃れることができません。

インターネット、SNS、AI時代の社会と個人のありかた。急速に変化を遂げていくテクノロジーと裏腹に、変わりきれない人間性。人間性を失われつつあるものとして描くのではなく、変わりきれないゆえに問題が生じるのだと、ある意味ポジティブに提示する強度が、『斗起夫』という作品には具わっています。

今、この上演台本をつかって、俳優とスタッフと、12月の本番に向けて準備を進めているところです。そうやって多くの人の視点や力を結集していくなかで、この作品はどんどんと良いものになり続けています。

ぺぺぺの会の代表作といえるような作品=傑作をつくる、という闘志の炎はめらめらと燃やしつつも、このメンバーで創作していくこと自体のプロセスを噛み締めて、愉しもうと思う今日この頃です。

宮澤 大和


【劇評】

暗闇に浮かぶ黄色は「警告」か、それとも「祈り」か。/丘田ミイ子


北斗七星の「斗」に、起承転結の「起」、それから三島由紀夫の「夫」。

この「斗起夫」という一風変わった文字の羅列を他者に伝えるとき、自分はどう表現するだろう。タイトルを目にして最初に考えたのはそんなことだった。

「どう伝えたらいいだろうか」というこの体感は、劇場を後にしてなおのこと強い実感をもって自分の中に長く居座ることになった。タイトルだけではない、その演劇が見せていた景色全てに、である。観劇から二ヶ月が経とうとしている今に至っても、本作を一言で、いや、この劇評を以てしてもその全てを伝え切れる自信はない。そのくらい大きな話であった。そしてそれは、物理的なものや出来事や時間、その広さや大きさといった意味合いではない。「斗起夫」という人間に流れる時間と場所。そこに立ち会うことそのものが果てしのない事象であったということである。

舞台『斗起夫―2031年、東京、都市についての物語―』は、2022年12月28日より3日間、北千住BUoYにて上演されたが、その創作の発端はさらに1年前の2021年12月、作・演出の宮澤大知による小説『斗起夫』の執筆に遡る。小説が完本した同年の初夏にはワークインプログレスを実施、俳優とともに戯曲化に臨んだ。その成果発表として戯曲のリーディングをした際に「上演台本にした方がいい」という意見があがり、今度は戯曲を上演台本へ。小説→戯曲→上演台本といったプロセスを踏まえながら上演まで約1年もの時間を費やしていることも本作の特徴の一つである。

また、11月よりスタートした稽古においては見学可能にすることで積極的に第三者の視点を劇作に取り入れるほか、俳優一人一人が自身の言葉でそれぞれの役に関するエッセイを綴るなど作品の理解を深めるための様々なアプローチも行なった。一つの物語を多角的に紐解きながら、幾重もの過程を重ねたクリエーション。『斗起夫―2031年、東京、都市についての物語―』という演劇の個性はその産物であり集大成、そして、カンパニーにとっては新境地とも言えるのではないだろうか。

分かりやすい「結果」や「結末」よりも、見えづらい「過程」や「痕跡」に光を当てた本作において、「伝えきれない」という体感はともすれば「受け取った」実感に等しいのかもしれない。そんな体感を前置きした上で、今一度その上演を振り返りたいと思う。

舞台上には二つの場所があった。

それぞれのサイズ感と使われる時間の比重としては、上手をメイン、下手をサブとしてもいいが、客席はそれぞれを縁取るように設けられており、その距離感において舞台と客席はやや混在するような造りになっていた。席は全席自由席。座る場所によって見えない景色があるというわけでは決してないが、角度が変わることで別の印象を受けることはありそうだ。当然このようなことは平面スクリーンに映写される映画では起こり得ない。演劇だからこそ持ち得る演出であり、そのどこに座るかは観客の主体的な選択であるとも言える。これらの空間デザインをもが本作における意図的な仕掛けであったことは冒頭シーンのシームレスな導入で確信に変わった。

開演前が往々にしてそうであるように、客席に座った観客はまず上演諸注意を聞く。出演者の宇田奈々絵が告げるそのアナウンスは「上演中の写真撮影はOKです」ということ以外は別段変わったことはなかった。しかし、「以上で“上映”は“終了”となります」という言葉を聞いてすぐ、そこからは諸注意でなく台詞であり、物語がインサートされていることを察する。

冒頭シーンは、映画館での上映会で司会のリリィ(宇田奈々絵)が上映終了の挨拶を行っている場面であった。引き続きこの場では映画監督・十和田(小澤南穂子)と評論家・平岡(はぎわら水雨子)によるアフタートークが始まり、私たちは今からそれを聞く、という体なのである。前説から本編へ、ひいては日常から物語へと接続していくそれは非常にスマートな演出であった。また、そのスマートさは外面/パッケージだけではなく、内面/ストラクチャーにも言えることであった。それは、「映画を観ていた観客」と「演劇を観ている観客」が入れ子構造の中で等しく“当事者”になっていくこと、ならざるをえないことが示された瞬間だった。舞台と客席の境界を均すための客席デザインやセリフの組み立ては演劇の演出においてはそう珍しいことではない。しかしながら、本作においてそれらがとりわけ光っていたこと、大きな意味を持っていたことは続くシーンでより強固に担保される。

それは、主人公の斗起夫(新堀隼弥)をはじめとする登場人物たちもまた映画の観客としてそこに存在していたことである。つまり、私とともに目の前で起きることを目撃していた=同じ時間を共有していた、という前提の元、物語が進行したことにあった。それは、「俳優と観客が同じ立場にあること」を予め明確に提示すること、それによって観客の主体的な観劇を叶えようとする表明の他ならなかった。上演中の撮影をOKとしていることもおそらくこの主体性の重視に通じているのではないだろうか。少なくとも私は見事それらの術中にはまったのであるが、そんな私の主体性をさらに後押ししたのは、俳優の技量だ。斗起夫を演じた新堀隼弥が、物語を定義する「座標軸」ではなく、その中心の「原点」でもなく、座標面を流動的に彷徨い、点在するような居方と佇まいで舞台に存在していたこと、その傍らで放物線を描くように俳優たちの滑らかな台詞の応酬が重ねられていたこと。冒頭のこれらの仕掛け無くしては、その後に続く長く険しい彼の追憶に能動的に相乗することは困難であったのではないかと思うほど、その演劇的な魔法は効果的であったと感じる。大仰な芝居やインパクトのある音楽を用いることなく、平熱のままにしかし緻密な表現力を以てその場の空気を生み出し、観客をその中へと没入させること。そこには俳優一人一人の苦心があったと想像する。

映画本編ではなく、“アフター”トークから物語が始まる、という発展の在り方もまた示唆的である。おおよそ自由選択であるはずのアフタートークに体とはいえ参加を余儀なくされている状態―しかも、本編を観ていないにもかかわらずー、は不思議な、興味深い体感であった。大体のアフタートークがそうであるように、やはり評論家は独自の解釈を元に監督に質問をし、監督は創作過程に起きたこと、感じたことを交えながらそれに答えた。そして、トークの話題に触れてその映画のエンディングが「再び」流れる。映画を見終えた体で言うと「再び」だが、当然ながら私は映画本編を見てはいないため、ここではじめて舞台上のスクリーンを通してその一部を見ることになる。ラストシーンの後にはそのままエンドロールが流れ、そこには映画でなく本公演のクレジットが流れていく。アフタートーク→ラストシーン→エンドロールと、言うなれば、終わりの描写から始まった本作である。振り返ると、この段階ですでに本作は「時間」を直線ではなく点、それらを結ぶ曲線や円環として捉えており、「結果」ではなく「過程」の物語であることを暗示していたのかもしれない。

さらに、私を没入させたのはその後の物語の展開、この映画館のシーンで登場人物間の重要な出会いが描かれていたことだ。上映会をきっかけに、ひょんなことから斗起夫は運命の出会いを果たすのである。その相手は同じく映画を観に来ていた同性カップルのナナちゃん(佐藤鈴奈)とわらび(石塚晴日)であった。しかし、二人はこの日を境に別れを選ぶ。それは、映画に抱いた感想を機に二人の関係に未来が望めないことが浮き彫りになってしまったこと、そのことでわらびがナナちゃんに対し「養子縁組という手段もある」「それも難しければ犬を飼えばいい」と言ったことが原因であった。奇しくもその場に立ち会うことになった斗起夫は、泣いているナナちゃんにハンカチを差し出しながらも、別れの決定打となる言葉を発したわらびの選択を擁護する。その翌日、斗起夫は父の亡骸と対面をする。父は病院に運ばれた時にすでに息を引き取っていた。ここでは事故とされるが、後に交わされる検屍官のますみ(熊野美幸)との会話から父の死因が自死であったことが明かされる。

冒頭シーンに触れたところで、公式に発表されているあらすじを前置きしておきたい。

“世界を主体的に生き抜くために、行動を起こし続けることを選択した斗起夫は、父が死んだ日に 「運命の人」とめくぐり逢う。ぎこちない不自然なコミュニケーションが、人間同士の溝を深め、 やがて過去のトラウマを喚び起こす。そして、彼はあることを決意するだろう......。”

このあらすじから飛び出して、この後に斗起夫が辿る他者との出会いやそこに紐づく出来事を起承転結と順序立てて伝えることは難しい。それは、ただ難しいから出来ない、というよりも、整理して分かりやすくすること自体がこの演劇が立ち上がらせた生々しい景色を損なわせる行為に等しい、という体感が大きかったと言える。

こんなことが起きて、こんな風に斗起夫は闇を抱え、やがてこんな行動に出ました。

そんなふうに物語の進行を時系列に則って、「結果」に向かって辿るのではないことに、本作の魅力は発揮されていたと思う。では、どんな風に私は約3時間を斗起夫とともに生きたのか。それは、彼の記憶、その追憶に参加することにあった。過去・現在・未来を横断、または循環するようにしてその引き出しが五月雨に開けられる度に私は彼の心の内を知り、それに追従するようにあぶり出される彼を取り囲む都市や社会の現状を、そして、彼個人が抱える私的な問題を共有したのである。最も不思議なことは、私が彼を知っている気がしてやまないということである。もはや会話を交わした気にすらなってしまっているほどに。例えば映画館で、あるいは道端やレストランで。例えば、モノローグなどを通して主人公の人生やその背景に流れるものを把握することはよくあるが、本作ではそういった手法は積極的に取ってはいない。にもかかわらず、私は斗起夫を知っている。彼が語る言葉ではなく、彼の居る数々の風景が私にそう思わせたということ、その実感こそがこの演劇が私に与えた最も大きな影響であったと思う。それらは、ともすれば長い独白を聞くよりも、彼を深く知る行為に思えた。

「斗起夫」というタイトルには、その下部に少し小さな級数で「―2031年、東京、都市についての物語―」というサブテキストが添えられている。「斗起夫」には「東京」の音訳である「TOKIO」すなわち「都市」が内包されていること、あるいは「都市」に「斗起夫」が内包されていること、またあるいは、相互に内包していること。そんな具合に二重の意味合いが込められているであろうことは見てとれたが、舞台上ではそれ以上のものが起き上がっていた。LGBTQ、同性婚、鬱、自死、親ガチャ、サイバー攻撃、震災……。一つ一つを噛み砕く間も無く、次なるシーンがまた新たなテーマを携えてやってくる。学生運動や三島由紀夫の割腹自殺に遡り、そこから派生して自衛隊や憲法改正、アメリカ、ロシア、中国、戦争、宗教……。単なるダブルミーンには止まらない複合的なテーマは2022年の12月、今まさに起きていることそのものであるが、物語の舞台は2031年なのであって、そのことにさらなる未来への不安を掻き立てられる。そして、それらが「斗起夫」という一人の人間の記憶に同機しながら語られることによって、その実感はより生々しく立ち上がり、都市が個人に与える影響に頭を抱えずにはいられない。一人の人間の心の深淵を追い続けることによって浮かび上がってくる社会のうねりと歪み。しかし、「斗起夫」を追い詰めるものはそれだけではなかった。

斗起夫は劇中で何度も同じ言葉を口にする。

それは父の自死の折に検屍官のますみに言われた言葉であった。

「世界を、広く、大きなものにしていく」

斗起夫が辿る人生には、他の多くの人がそうであるように別れがあり、出会いがある。不器用ながらも他者との関わりを重ねるその人生には希望もわずかにはあったのかもしれないが、それをほとんど無に帰すほどの絶望と破滅、そして拭い去れない孤独が横たわっていた。それは、本作が社会の暗部だけでなく、個人の闇=トラウマを描く物語でもあるからだ。

「斗起夫」は、幼い頃に亡き父親の不貞の現場を母とともに目撃していた。その時に父の欲情に連動するように勃起したこと、そんな自分を母が穢れの塊を見るかのように見つめたことが、その人生において消えないどころかその後も広がり続ける滲みとなって、彼を苦しめる。それだけではなかった。彼は父親と同世代の男性・小谷野に性被害を受けていた。そのことがきっかけで彼は「同性愛」に対して恐れと嫌悪を抱いていたのである。しかし、奇しくも彼が「運命の出会い」を果たした相手は、一目惚れをしたナナちゃんは、その当事者であった。そして、斗起夫はやがて彼女に求婚をする。それが、純粋な思慕からであったのか、トラウマを乗り越えようとする一つの手段であったのかは未だに分からない。ただ、その時斗起夫が「僕には精子がある。だから養子をとる必要も、犬を飼う必要も、ない」という暴力的にすら聞こえるプロポーズを告げた瞬間に、彼が死への焦燥を抱えながら藁にもすがる思いで生を、その存続を渇望していたこと、性におけるトラウマを抱えながら生に対する切実を抱えていたことを受け取った。たとえ彼の発言を肯定は出来ずとも、それこそが斗起夫の等身大の姿であったように思う。

また、本作には一際異質なシーンとして、「ハタケ」と呼ばれる存在が描かれる。彼女たちは精子を迎え入れて受精卵にするという使命を持ち、「街頭では、結婚はしたくないが子供は欲しいという男性たちの意見が根強く、ハタケはそうしたニーズに応えるのにもってこいのサービスだということがわかります」という台詞を鑑みるに代理母的な役割を担っている。性行、着床、妊娠、出産……そうした生命の起源や発生を想起させるシーンは、斗起夫の性的トラウマや生への絶望と切実、親ガチャという事象に紐付いているように見えた。これらの性を巡るシーンは誰かを傷つける可能性を大いに含んだものであった。しかし、斗起夫という人間を、その暗雲の歩みを描く上では省くことのできない不可欠なシーンであった。上演に際してチラシなどでは予めこう記されていたこと、それを踏まえた上で私が観劇に臨んだことも併せて伝えておきたい。

「劇中に性的な描写があります。また、一部の性的指向に対して過激な発言をするシーンがあります。フラッシュバックなどのご心配がある方は、下記メールアドレスまでお問い合わせください。ご希望のお客さまには、シーンの詳細説明や無料キャンセルを承ります。」

ところで、斗起夫は父の死をきっかけに、あるコミュニティに参加するようになる。それは、セミナーと呼ばれるものであり、「テレビはわたしたちのことをカルトだと非難してくる」という主宰者のセリフを鑑みるに、世間的にはおそらく新興宗教といった立ち位置である。その主宰者は冒頭の映画上映会で司会をしていたリリィであった。そこで行われていたのは、鶏の唐揚げと赤ワインを嗜み、10本のボーリングのピンを独裁者に見立てて倒すという儀式。その会話中に挿入されるのは、2022年のウクライナ侵攻、元首相の死とその神格化、核シェアリング……。戦争の予感を受けて、その思想は大きなものへと膨れ上がっていく。そして、「斗起夫」がまさに生まれたのは、その儀式の場でのことであった。斗起夫にはそれ以前までを生きてきた別の本名があったが、このセミナーへの参加を機に自身のこれまでについて語り、それを受けたリリィによって新たなハンドルネームを命名されるのである。ちなみに後に調べて知ったことだが、「斗起夫」の「斗」という文字にはこんな四字熟語がある。斗酒隻鶏。それは、一斗の酒と一羽の鶏を死者の祀りに用いたことから転じて「亡き友人を追悼し、述懐すること」を意味する。儀式がそういった意味を内包するものだとしたら、斗起夫はこれまでの自分を死せることで新たに生まれ変わった、とも言えるのではないだろうか。

「東京から生まれた斗起夫くん」

「あなたは生まれ変わったのです。今や悪しきものはあなたの外部にあります」

しかし、過去の名を捨て、新生の洗礼を受けてもなお斗起夫の深い絶望と孤独は拭い去れなかった。

「それでも悪しきものが僕の脳裏にちらつく場合はどうしたらいいですか、と僕は訊きませんでした。世界を、広く、大きなものにしていく−――あなたは言いました。世界を、広く、大きなものにしていく−――この言葉は僕の世界観を決定的に変更しました。けど、世界観が変わるだけで世界はなにひとつ変わりませんでした。僕には社会がこれからよくなっていくっていう感覚もないし、自分がよりよくしていけるっていう自信みたいなものもありません。みんな自分のことばかり考えている。だからいけないのだ。僕がいくら親切にしたところで、なにも変わらない」

そう言って、斗起夫は机の上に並べた3挺の銃をしあげ、世界の終わりを切望する。“世界を、広く、大きなものにしていく”ために。その終わりを遂げる直前、斗起夫はある偶然の出会いを果たす。その相手はわらびであった。場所は、ナナちゃんに思いを馳せるわらびが日課として訪れている海岸であり、そこは同時に斗起夫にとっても思い出の場所であった。この海岸での偶然の出会いによって斗起夫は自身の絶望の象徴でもあった父親の生前の葛藤を知ることになる。ラストシーン、わらびは斗起夫にこう告げる。「お父さんは、きっと、あなたを愛していました」。そう言って月のように丸く大きなメロンを袋から取り出す。

「よかったら一緒に食べない?」

その一言は、この物語における唯一の救いであった。親ガチャで父の元に生まれ、性的トラウマを抱え、性被害を受け、社会にも未来にも希望も見出せないまま、セミナーでその名を受けた斗起夫。 “世界を、広く、大きなもの”にしたかった斗起夫は、最も身近な世界である他者と本当の意味で心を通わせることなく、狭く、小さく、暗い世界に居た。ずっと闇であった。その暗さに目が慣れることもないままにひたすら濃くなりゆく漆黒の暗闇だった。その中に祈りの一筋が差した瞬間、斗起夫のわずかに緩んだ目尻とともに舞台は幕を閉じた。

彼の人生や記憶に入れ込めば入れ込むほど、「トラウマ」という問題に対して、「克服」という結末をふと期待してしまう自分もいたが、その時にはたと気がついた。目の前の物語を意識的にも無意識的にも自分の好都合に解釈し、結論づけようと願ってしまう自分の暴力性についてである。本作が「トラウマ」を克服する「結果」のために在る物語ではないこと。そのことは、劇中のさまざまなシーンで示されていたように思う。29ものシーンは時系列を横断的に行き交い、その断片的な連想のパッチワークがより「記憶」に立ち会う感覚を強くしていた。人間が目の前の瞬間に応じてそれぞれのポケットから記憶を取り出していく追憶そのものの手触り。そこには、「演劇を見やすくする」といったある種の予定調和を諸共投げ打ってでも伝えたい、人間がその人生とともに帯同と共生を余儀なくされる「生きづらさ」、今日明日に容易には消化できない社会の「やりきれなさ」がありありと抽出されていたように思う。時系列が細かく整理されていることや、登場人物の歩みや思いが独白で示されていくこと、社会的問題を扱うにあたって誤解を招かぬよう丁寧なリードを伴走させること。それらを意図的に行うことによって観客にとって「やさしい」作品は作ることができる。しかし、本作はその真逆の方法を取りながら、「果たしてそんなに人とは、世とは簡単なものだろうか」という問いかけを重ねていたような気がしてならない。いくつものトラブルとテーマを携えながら目の前で起こる風景を通じて「観客が主体的に感じるもの」に重きを置いていたのではないだろうか。それによって複雑で多様な人間の在り方を、その果てしなさを握らせていたのではないだろうか、と。斗起夫という一人の男、東京という一つの都市をめぐる近未来2031年の物語は、そのまま今を生きる人間や今ある街そのものにも置換できる。そう考えた時、やはり私たちの生きる未来はひどく険しい。

登場人物たちは斗起夫を除いてみな、黄色と黒の二色を身に纏っていた。それらがずらりと横並びになって視界に入った時、それはまさしく踏切の風景であった。その向こうを走っていく電車が2031年へと向かう未来だとするならば、それは一時停止、警告のサインと捉えることもできる。しかし、その洋服や靴を身につけた身体が一つ、二つと舞台上に散らばった時、それは暗い夜に浮かび上がる月のようにも見えた。そう思いたい自分を消すことが出来なかった。

都市と人間に絶望して破滅へと向かっていくひとりの男・斗起夫。その物語に「結末」は用意されていない。あるのは、生きた「過程」と生きている「痕跡」だ。円環のように紡がれた時間を思い出しながら改めて思う。2023年の今、まだ「斗起夫」ではない彼は、どんな名前を生き、どんな時を生きているだろうか。今の世界が、社会が少しでもマシになれば、彼は斗起夫に出会わずに済むのだろうか。もし、それがもう運命として不可避だとしたらせめて、あの後、彼はわらびとあの月のような丸いメロンを食べただろうか。食べ終わって、どんな顔をしただろうか。そのことによって少しでも世界を広く、大きなものに感じただろうか。そのとき、彼は再び、その名を捨てるかもしれない。何一つ確信のない想像をいくつも広げながら、それでも一つだけ確かなことがある。

北斗七星の「斗」に、起承転結の「起」、それから三島由紀夫の「夫」と書いて斗起夫。私は彼を知っている。彼が生きていた時間を、生きている時間を知っている。あの時、彼は確かに私と、私たちと同じ映画を観ていた。スマートフォンの中に彼の姿を探す。自らを覆う闇と同化するように黒の洋服と靴を身に纏った斗起夫がいる。

見逃してしまいそうなほどわずかな月灯りが、その足元を縁取っていた。




公演情報


【作・演出】

宮澤大和


【出演】

石塚晴日、佐藤鈴奈、熊野美幸、新堀隼弥(以上、ぺぺぺの会)
飯尾朋花(いいへんじ、山口綾子の居る砦)、宇田奈々絵、小澤南穂子(いいへんじ、山口綾子の居る砦)、小池舞、小林彩、瀧口さくら、中荄啾仁(劇団夜鐘と錦鯉)、はぎわら水雨子(食む派)、松浦みる(いいへんじ/青年団)


【スタッフ】

舞台監督:今泉馨 (P.P.P.)、児玉恒士(P.P.P.)
照  明:緒方稔記 (黒猿)
音  響:谷脇南美
作  曲:杉浦未来 (れとろみらい)
映  像:杉浦未来 (れとろみらい)
衣  装:目黒ほのか
宣伝美術:羽田朱音
制  作:石塚晴日、佐藤鈴奈

広  報:熊野美幸

演出助手:新堀隼弥


【公演日時】

12/28(水) 12:00●① / 18:00
12/29(木) 12:00●②/ 18:00
12/30(金) 12:00 ★

●:ゲストをお迎えしてアフタートークを行います。
①神保治暉さま(エリア51)、三橋亮太さま(譜面絵画/青年団演出部)、中島梓織さま(いいへんじ)
②松本一歩さま(平泳ぎ本店) 

★:年越しイベントを開催いたします。

上演時間は2時間45分を予定しております。(途中休憩込み)

【場所】

北千住BUoY


【チケット】

一般       3500円
U-30(30歳以下)3000円
学生       2000円
高校生以下    500円





● 俳優たちのエッセイ「自分の役について」

斗起夫・・・・・・新堀隼弥(ぺぺぺの会) 

平岡・・・・・・はぎわら水雨子(食む派)

ムギ・・・・・・小池舞

リリィ・・・・・・宇田奈々絵

ますみ・・・・・・熊野美幸(ぺぺぺの会)

百合・・・・・・松浦みる(いいへんじ、青年団)

博士・・・・・・中荄啾仁(劇団夜鐘と錦鯉)

ミキ・・・・・・小林彩

アロハ・・・・・・飯尾朋花(いいへんじ、山口綾子の居る砦)

ジャム・・・・・・瀧口さくら


十和田・・・・・・小澤南穂子(いいへんじ、山口綾子の居る砦)


わらび・・・・・・石塚晴日(ぺぺぺの会)

ナナちゃん・・・・・・佐藤鈴奈(ぺぺぺの会)



● けいこばツアー

12月に上演される、『斗起夫 ー2031年、東京、都市についての物語ー』の稽古場を、だれでも・ いつでも・お気軽に、見学することができます。※終了しました。

詳しくはこちら☟



● 斗起夫 ワークインプログレス

オリジナルの小説『斗起夫』をおよそ半年かけて、戯曲化し、演劇として上演します。

8月にはその第一段階として、戯曲化のプロセスをおこないました。


ワークインプログレスの座談会の様子も公開中です!

~ゲスト~

神保治暉(エリア51)さま

中島梓織(いいへんじ)さま
三橋亮太(譜面絵画/青年団演出部)さま

詳しくはこちら☟